ついにここまで来た。
目の前には、漆黒の闇が広がっている。
冥界王ハデスを前に、オルフェウスは緊張した面持ちで竪琴を弾き始めた。
命の危険を顧みず、やっとの思いでここまで辿り着いたのだった。
最愛の妻を、なんとしても取り戻したかった。
切ないまでの彼の想いが、竪琴の調べに乗り、闇の中を響き渡っていった。
ハデスはその音色にじっと聴き入っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「よろしい。遥か遠く、この冥府までやって来たお前の熱き想いとその勇気に免じ、願いを聞き入れよう。」
冥界の王でさえ、彼の竪琴には抗えなかった。
それだけオルフェウスの竪琴は、甘美で郷愁を誘うものだった。
「ただし、ひとつだけ条件がある。」
ハデスは言葉を続けた。
「オルフェウスよ、地上に出るまでは妻の姿を見ることは許されない。だが案ずるな、エウリディケはお前の後ろからついて行く。
地上に出て二人が共に太陽の光を浴びるまで、決して後ろを振り返ってはならない。約束できるか。」
「できます!決して振り返りません。」
ハデスの言葉で既に至福の中に在ったオルフェウスにとって、それは至極簡単な約束だった。
「エウリディケに支度をさせよう。待っているがよい。」
こうして二人は地上界に還るべく、神々の計らいを受けることとなった。
オルフェウスは地上への小道を歩き始めた。背中に懐かしい匂いを感じながら。
どれくらい歩いただろうか。
闇の中に一筋の光が射してきた。
光の方向に進むと、やがて地上界の扉が見えて来た。
この扉を開け、妻と二人で大地に足を下ろせば、元の生活に戻ることができる。
あと少し…
「エウリディケ。」
はやる気持ちを抑え、オルフェウスは妻の名をそっと呼んでみた。
返事はなかった。
そればかりではない。
さっきから足音も聞こえず、背後には彼女の気配さえまるで感じられなかった。
もしや騙されたのでは?
途端に、彼の心は猜疑心でいっぱいになった。
このまま地上の光を浴びてしまえば、
再び冥界へ赴くことはできないだろう。
たとえ戻ることができたとしても、
今度はもう、竪琴に心を揺さぶられることはないかもしれない。
そうなれば、愛する妻には、二度と触れることも会うことさえ叶わない。
「エウリディケ!」
彼は妻を連れ戻すため、
再びハデスの元へ行こうと振り返った。
そして…
闇に吸い込まれていく美しい妻の姿が、そこにあった。
「しまった!エウリディケ、待ってくれ!」
すでに後の祭りだった。闇の中を彼の声だけが虚しくこだました。
全ての望みが一瞬で消え失せたのだ。
「お帰り。戻って来たね。さあ、それでは帰還の宴だ。準備は整っている。」
ハデスはまさに今注がれたばかりの黄金の盃を、彼女に差し出した。
「あら、用意がいいのね。初めからわかっていたの?こうなるって。」
「開けてはいけないという箱は必ず開けてしまう。振り返ってはいけないと言われたら必ず振り返る。人間とはそういうものだ。」
「ふふ…そうね。」
エウリディケは不敵な笑みを浮かべ、ハデスから盃を受け取った。
冥界に咲く怪しい花の冠を付けたエウリディケは、地上にいるときより一層美しかった。
彼女を死に至らしめた毒蛇も、今や彼女の従順な僕となり寄り添っていた。
彼女は冥界での暮らしをすっかり気に入っていた。
はじめのうちこそ、絶望に打ちひしがれオルフェウスを偲び、泣き続けていたエウリディケではあったが、
ハデスの精悍な風貌や、冷厳だがその奥にある死者への慈悲深い眼差し、
とりわけ公明正大な審判を見るにつけ、
次第にハデスに思いを寄せるようになっていった。
なによりここにいれば、自らの欲で身を堕とした人間たちが、次々と運ばれて来る。
彼らの生前の暮らしぶり、闇に堕ちるまでのいきさつや葛藤、
その愛憎劇は、エウリディケの好奇心を存分に掻き立てた。
そして冥界に堕ちてなお枯れることのない欲望に、苦しみあえぐ人間の姿を、
まるで劇場の特等席に座しているかのように、愉しむことができるのだ。
エウリディケにとって、それはこの上ない悦びになっていた。
オルフェウスと過ごした日々も幼い日の母の面影も、すでに色褪せた記憶となり、
地上界の安らぎなど、もはや戯れでしかなかった。
闇の中にこそ真実がある。
エウリディケはここで暮らすうち、いつしかそう確信するようになっていた。
人間の愚かな謀略も遺恨も全てが闇の中で暴かれ、それらはやがて懺悔や希求となり蘇っていく。
全てを包み込む闇という存在は、なんと慈愛に満ちているものか。ここから新たな命が、光が、誕生していくのだ。
「地上は退屈だわ。」
エウリディケはそう呟き、盃を一気に飲み干した。
そして冥界王に寄り添い満足げに微笑むと、その美しくしなやかな腕を王の首にまわした。
終わり
♡挿絵について♡
フリー素材サイト「イラストAC」さんより、加工&使用しています。