夢みる冒険者たち

***ひっくり返すファンタジー***

エウリディケの望み

 

 

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ついにここまで来た。

目の前には、漆黒の闇が広がっている。

 

 

冥界王ハデスを前に、オルフェウスは緊張した面持ちで竪琴を弾き始めた。

 

 

命の危険を顧みず、やっとの思いでここまで辿り着いたのだった。

最愛の妻を、なんとしても取り戻したかった。

 

切ないまでの彼の想いが、竪琴の調べに乗り、闇の中を響き渡っていった。

 

 

 

 

 

 

ハデスはその音色にじっと聴き入っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

 

  

「よろしい。遥か遠く、この冥府までやって来たお前の熱き想いとその勇気に免じ、願いを聞き入れよう。」

 

 

冥界の王でさえ、彼の竪琴には抗えなかった。

 

それだけオルフェウスの竪琴は、甘美で郷愁を誘うものだった。

 

 

 

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「ただし、ひとつだけ条件がある。」

 

 ハデスは言葉を続けた。

 

 

「オルフェウスよ、地上に出るまでは妻の姿を見ることは許されない。だが案ずるな、エウリディケはお前の後ろからついて行く。

地上に出て二人が共に太陽の光を浴びるまで、決して後ろを振り返ってはならない。約束できるか。」

 

 

「できます!決して振り返りません。」

 

ハデスの言葉で既に至福の中に在ったオルフェウスにとって、それは至極簡単な約束だった。

 

 

「エウリディケに支度をさせよう。待っているがよい。」

 

 

こうして二人は地上界に還るべく、神々の計らいを受けることとなった。

 

 

オルフェウスは地上への小道を歩き始めた。背中に懐かしい匂いを感じながら。

 

 

 

 

 

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どれくらい歩いただろうか。

 

闇の中に一筋の光が射してきた。

 

 

光の方向に進むと、やがて地上界の扉が見えて来た。

 

この扉を開け、妻と二人で大地に足を下ろせば、元の生活に戻ることができる。

 

あと少し…

 

「エウリディケ。」

 

はやる気持ちを抑え、オルフェウスは妻の名をそっと呼んでみた。

 

 

 

 

 

 

 

返事はなかった。

 

 

そればかりではない。

さっきから足音も聞こえず、背後には彼女の気配さえまるで感じられなかった。

 

 

 

もしや騙されたのでは?

 

 

途端に、彼の心は猜疑心でいっぱいになった。

 

 

このまま地上の光を浴びてしまえば、

再び冥界へ赴くことはできないだろう。

 

たとえ戻ることができたとしても、

今度はもう、竪琴に心を揺さぶられることはないかもしれない。

 

そうなれば、愛する妻には、二度と触れることも会うことさえ叶わない。

 

 

「エウリディケ!」

 

彼は妻を連れ戻すため、

再びハデスの元へ行こうと振り返った。

 

 

そして…

 

 

 

 

 

 

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闇に吸い込まれていく美しい妻の姿が、そこにあった。

 

 

「しまった!エウリディケ、待ってくれ!」

 

 

 

 

すでに後の祭りだった。闇の中を彼の声だけが虚しくこだました。

 

全ての望みが一瞬で消え失せたのだ。

 

 

 

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「お帰り。戻って来たね。さあ、それでは帰還の宴だ。準備は整っている。」

 


ハデスはまさに今注がれたばかりの黄金の盃を、彼女に差し出した。

 


「あら、用意がいいのね。初めからわかっていたの?こうなるって。」

 

 

 

「開けてはいけないという箱は必ず開けてしまう。振り返ってはいけないと言われたら必ず振り返る。人間とはそういうものだ。」

 

 

 

「ふふ…そうね。」

エウリディケは不敵な笑みを浮かべ、ハデスから盃を受け取った。

 

 

 

冥界に咲く怪しい花の冠を付けたエウリディケは、地上にいるときより一層美しかった。

 

彼女を死に至らしめた毒蛇も、今や彼女の従順な僕となり寄り添っていた。

 

 

 

 

 

 彼女は冥界での暮らしをすっかり気に入っていた。

 

 

はじめのうちこそ、絶望に打ちひしがれオルフェウスを偲び、泣き続けていたエウリディケではあったが、

 

 

ハデスの精悍な風貌や、冷厳だがその奥にある死者への慈悲深い眼差し、

とりわけ公明正大な審判を見るにつけ、

 

次第にハデスに思いを寄せるようになっていった。

 

 

 

なによりここにいれば、自らの欲で身を堕とした人間たちが、次々と運ばれて来る。

 

彼らの生前の暮らしぶり、闇に堕ちるまでのいきさつや葛藤、

その愛憎劇は、エウリディケの好奇心を存分に掻き立てた。

 

そして冥界に堕ちてなお枯れることのない欲望に、苦しみあえぐ人間の姿を、

まるで劇場の特等席に座しているかのように、愉しむことができるのだ。

 

エウリディケにとって、それはこの上ない悦びになっていた。

 

オルフェウスと過ごした日々も幼い日の母の面影も、すでに色褪せた記憶となり、

 

地上界の安らぎなど、もはや戯れでしかなかった。

 

 

 

 

 

 

闇の中にこそ真実がある。

 

 

 

エウリディケはここで暮らすうち、いつしかそう確信するようになっていた。

 

人間の愚かな謀略も遺恨も全てが闇の中で暴かれ、それらはやがて懺悔や希求となり蘇っていく。

 

 

全てを包み込む闇という存在は、なんと慈愛に満ちているものか。ここから新たな命が、光が、誕生していくのだ。

 

 

 

 

 「地上は退屈だわ。」

 


エウリディケはそう呟き、盃を一気に飲み干した。

そして冥界王に寄り添い満足げに微笑むと、その美しくしなやかな腕を王の首にまわした。

 


終わり

 

 

♡挿絵について♡

フリー素材サイト「イラストAC」さんより、加工&使用しています。